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読 書(よみかき) 発電所 ,桃 介 橋

 水路式発電所の金字塔「読書発電所」とその建設資材運搬路としての「桃介橋」

 信州木曽駒高原に,元勤務先会社の保養所がありOBとその配偶者が利用できる。
 今回は,ドラゴン会の面々6人と奥方4人合せて10名が保養所をベースにして妻籠宿・馬籠宿と御岳山から開田高原をめぐった。
 初日,わたしは早朝に新幹線名古屋経由で中央西線南木曽駅下車で訪れたのが,「読書発電所」,「福沢桃介記念館」,「桃介橋」である。


   読書(よみかき)発電所(国指定重要文化財)(1923年(大正12)竣工)
読書発電所
 大正10年11月から12年12月にかけて大同電力㈱(のち関西電力㈱)の社長福沢桃介によって,水力発電開発にとっては 合理的考え方である「一河川一会社主義」に基づいて木曽川に次々と建設された「桃山」「須原」「大桑」「賤母」「落合」「大井」発電所のなかでも, 最大出力(当時40,700キロワット,現在117,100キロワット)を誇る金字塔ともいうべきダム水路式発電所である。
 

 南木曽駅に着いたのが11時ちょっと前,東京を出るときから降っている雨は相変わらずシトシトと降り続いている。
 時間の節約のため,駅から国道19号をおよそ2km程の読書発電所が望める吾妻橋までタクシーを利用する。
 木曽川を挟んで発電所正面で降ろしてもらう,眼前に木曽川の清冽な水面に影を落とすアールデコ風の発電所建屋が静かなたたずまいを見せていた。
 
 傘をさしながら行き交う車列を気にしながらしばし周囲の風景になじむ姿を眺めかつカメラに収めた後,国道を少し戻り橋を渡って発電所に至る。
 ここからは木曽川右岸の山腹の遊歩道をおよそ2km上流へ行くことになるのだが,橋を渡ったところに立て札あり「最近,猿と熊が出没するので,ここにおいてある笛を持っていってくれ,使用後は終点側の箱に戻して」という趣旨のことが書いてある。ところが折悪しく笛はすべて終点側に行っているらしくここには一つも無い。しかたない,独り言とか唄でも唄いながら歩くしかないか。

 読書発電所は,当時の高い技術的水準を示すとともに,木曾谷の自然と調和した大正期の水路式発電所施設を代表する近代化遺産として桃介橋・柿其(かきそれ)水路橋とともに国重要文化財(建造物)に指定されている。(平成6.12.27)
発電所本館

 鉄筋コンクリート造で煉瓦壁,陸屋根構造。
半円形の窓や屋上に突き出た明り取り窓や壁上辺を飾る模様など凝ったディテールに,手つかずの木曾の自然に電力開発を行う代償として,発電所建屋に景観上の心遣いをしていることに感心する。
水圧鉄管路

 内径2.9m,全長290m,落差112.12m。
関西電力のパンフレットによれば,建設当初は,この3本の鉄管路で3基の発電機を稼動させていたが。現在は,昭和35年新たに1基を増設し,合計119㎥/sの水量で117,000キロワットの発電を行っている。

参考ウェブサイト:南木曽名所図絵「読書発電所」

 福沢桃介記念館,山の歴史館
福沢桃介記念館
 大正8年に大同電力の1号社宅として建てられ,電力王といわれた福沢桃介が発電所建設の陣頭指揮を執るとともに,別荘としても使用された。日本で最初の女優といわれる川上貞奴も桃介とここで暮らし政財界政界や外国人技術者など来客の接待をしたという。 また,昭和28年7月の伊勢小屋沢の蛇抜け災害でかろうじて被害に遭わず残ったが(隣接する2号社宅は流失),昭和35年南木曽町立中学の職員寮として利用されていた時火災により2階部分が消失,平屋として部分修繕を行い,昭和60年より記念館として一般公開を開始した。 平成9年に復元され桃介に関する資料を公開している。

  読書発電所の鉄管路の2/3位の高さまで登ってから林の中の遊歩道を上流に向かう。まだシーズンオフなのか道一面に折からの雨に濡れた雑草が生い茂り歩き出してすぐ,靴&靴下&ズボンの裾がずぶぬれ状態となる。約2kmの間,行き交う人なし。
 終点側の民家が点在するあたりの大樹の下で雨宿りしながら,持参のおにぎりをほお張り休憩する。
 右手に立派な校舎が目を引く南木曽中学を過ぎると,左手山側に瀟洒な福沢桃介記念館前に着く。
 隣接して山の歴史館がある,この建物は,帝室御料局妻籠出張所庁舎として明治33年に旧妻籠宿本陣跡に建てられたものを,移築復元したもの。
 【記念館の見学】
   開館時間 9:00~17:00
   休館日  水曜日
   見学料金 (大人300円、 小人150円)  (山の歴史館も含む)
 
 入館すると,管理人の女性が,「お時間があれば簡単なご説明をします。」といって案内してくれた。簡単どころか,微にいり細にわたる懇切丁寧な説明で,内心 時計を気にしながら拝聴した。
 山の歴史館では,木曾の山の資料や江戸時代に尾張藩が行った「木一本首一つ」という苛酷な山林資源保護政策の資料などが展示されており,木材とともにあった木曽の歴史や明治の御料林時代まで続いた民衆の苦しみの歴史を垣間見る思いがした。
 以下の如き内容の説明が記憶に残った。
 「江戸時代の木曽山は伐採・立入禁止の留山・巣山と住民が自由に利用してよい明山に分けられていた。ところが明治政府は明山まで含めてすべての山を天皇の財産(御料林)にしてしまった。(なるほど,この建物が細部の意匠に凝っているのは天皇の権威を民衆に見せ付けて圧倒する為だったんだ)。内部には討伐者の取調室,監獄2部屋がある。この圧制に立ち向かったのが島崎広助(藤村の実兄)を中心とした木曽の人々で,粘り強く哀願をくりかえした結果,御下賜金(年1万円)の交付ということで決着がついた,これを「御料林事件」と呼ぶ。

 福沢桃介記念館はレンガ造りの瀟洒な建物で,雨に煙る山裾に静かなたたずまいを見せていた。このあたりは土石流(地元では蛇抜けと呼ぶ)の頻発地帯で,建物の基礎はいわゆる高床式で土石流発生時には床下を通過するような工夫がされているという。(そんな程度では土石流被害を免れることは出来ないと思うが,確かに付近には巨岩がゴロゴロしている)。内部には電力開発の工事写真,桃介と愛人貞奴を偲ぶ写真や遺品,貞奴が愛用した茶碗などが展示されている。

   参考ウェブサイト:南木曽名所図絵「福沢桃介記念館」  


 
桃介橋(国指定重要文化財)(1922年(大正11)年9月竣工)
桃介橋
 大同電力(株)(社長 福沢桃介)により,大正10年末から11年9月にかけて下流部(約2.2Km)に建設する読書(よみかき)発電所の建設資材運搬路として,トロッコ線路敷設と併せて建設されたもの。昭和53年頃まで現役として使用されていたが,老朽化著しく平成5年修理復元された。現町道として木曽川右岸にある南木曽中学校や曽南高校に通う生徒たちに使用されている。    

 列車の時間を気にしながら桃介橋へ向かう。
 間もなく右手に電力王の名を冠した桃介橋が見えてくる。
木製の吊橋としては日本有数の長大橋で,三本の主塔と高い木製のトラスを備えたデザインが印象的だ。中央橋脚が下流側にバットレス式に出っ張っていて,そこから中州に降りられるようになっているのが面白い。一時は老朽化による廃橋の危機もあったが,地域住民から保存の声があがり平成5年ふるさと創生基金1億円も活用して修復された(前記管理人の話)。観光資源として人々を呼ぶ一役を担うばかりでなく,生活道路としても活躍する現役の橋である。
 
 【橋梁諸元】
全 長:247m, 幅 員:2.7m(全幅4.4m)
主 塔:3基 (石積部分高さ 13.0m,コンクリート部分高さ 13.3m)
主索ケーブル: 8本(片側4本, 径4cmのストランドロープ使用)
主索ハンガー: 204本(片側102本、 径3.5mmの鉄線を5本結索してある)
耐 風 索:   4本(径3.2cmのストランドロープ使用)
補 剛 桁:   木製
 
 復元設計は,㈱建設技術研究所 復元工事は佐藤工業㈱が施工した。
復元された橋には,トロッコ線路を模して中央に2条の板が敷かれている。 山の歴史館左手に解体された桃介橋の一部が保管展示されていて当時の架橋技術の一端を見ることが出来る。

 中央主塔工事中の写真(桃介記念館展示写真より)  渡り初め式の写真 後列左桃介,右貞奴
(桃介記念館の展示写真より)

 参考ウェブサイト:南木曽名所図絵「桃介橋」